ドナウで足を洗いたい!
今から15〜6年前だったと思います。先生は中島がオーストリアの田舎でどんな生き方をしてい
るか見てやろうと、わざわざパリ経由でGUSEN村の我が家に来てくださった時の思い出です。
先生をリンツの駅に迎えに行ったおり、先生は開口一番に「中島君、僕はドナウで足を洗いたい
。」とおっしゃいました。私はびっくりしました。
こんな簡単でたやすいことはありません。我が家から歩いても行けるすぐ近くを、大河ドナウは流
れています。その日の午後だったと思います。
さっそく足を洗いにドナウに出かけました。先生は靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、ズボンをひざの上まで
まくしあげ(ついでに腕時計を河岸にはずされて)満足そうに両足をドナウに入れ、うれしそうに足
を洗うご様子が忘れられません。腕時計はドナウの河岸に置き忘れて、その後ずっと一緒に旅を
続けましたが、先生は一度も時計を無くした話はされませんでした。
何年かのち、先生のお宅にお邪魔した際、ドナウで足を洗った話になりました。
先生はどうもあの時に、ドナウに時計を置き忘れたようだと言っておられました。
私はドナウで足を洗ったお礼に、高価な時計を置いてこられたのだと思っています。
それから先、ウィーン、ブダベストと廻りました。ウィーンでは美術館等見て歩きました。他に見た
いものがありますかとお尋ねしたところ、武の学校を見たいと言われました。
私たちはまたまた驚きました。こんな簡単なことしか申されません。
私達は息子の卒業した学校に行きました。(マリア・テレジヤのお父さんの館。現在は学校。)
正門に入った時です。先生はなにか背広の胸の辺りをもそもそと探されている様子なので、具合
でも悪くなられたのかと心配になり、「どうされたのですか?」とお聞きしたら、「いやいや、武の学
校の創立者で、オーストリアの女王、マリア・テレジヤ様に敬意を表して、入れ歯を探しているのだ
、と申されました。そして、ちょっと失礼、と後ろを向かれて、口の中にポンと入れ歯入れられた、そ
のしぐさがおもしろおかしく感動しました。
その後、ウィーンからブダベストまで船でドナウ下りをしました。
ブダベストでは名所等を見てまわりましたが、先生はあまり興味がなさそうでした。今回のヨーロッ
パ見て歩きは、現代美術の流れを先生の目でじっくり見たかったのだと思われました。
ブダベスト、ドナウ下りより、ドイツ、その他の国の現代美術を見て歩くほうが、先生には良かった
のではないかと悔やまれます。
帰りにもう一度GUSEN村の我が家に戻ってきました。パリに戻られる前夜、柳原先生を囲んで
私の知人、友人を大勢呼んでバーベキューパーティーを家の裏庭で始めました。ワイン、ビール、
オーストリアの焼酎(シュナプ45°)焼肉、おにぎり、サラダと皆よく飲みよく食べパーティーは盛り
上がりました。先生は長旅でだいぶお疲れの御様子でしたので、皆より早めにお休みになりました
。我々はお酒が入るにつれてますます元気になり、歌やおしゃべりとさわいでいました。その時で
す。家の中から歌声が聞こえてくるのです。先生はみんなに合わせてベッドの中から歌っているの
です。我々は皆耳をすませて聞き入りました。
その歌声がおもしろく、おかしな、どこで覚えられたのか古い替え歌で、なかなか味のある歌声な
ので皆感心しました。十何年も前の、そんな思いやりのある思い出です。
昨年(2004年)10月、私達は日本に帰っておりました。いよいよ明日オーストリアに帰る前日で
す。先生にご挨拶に行ったときのことです。操さんと一緒に先生のお部屋に行って、我々は明日
帰りますから、先生お体を大切に、お元気で、また来ますから、とご挨拶して部屋を出る間際に、
先生突然何を言われたと思います?「武のくれた薬を飲まなかった。」と言われたのです。
(数年前に先生にあげてくれと、医師である武に頼まれた新薬のことです。日本の医師は先生に
はまだ早すぎると言われた薬のことです。我々も忘れていました。)
私達は本当に驚きました。その言葉が先生の最後の言葉となりました。
葬祭場での告別式のすべてが終わり、皆帰り始めました。私は急いで先生の骨粉を両手でかき集
めて、封筒に入れ、オーストリアに持ち帰りました。
先生が生前、“ドナウで足を洗いたい”と言われたドナウにしずかに骨粉を流し入れました。今頃は
、色々な国を寄り道しながら、黒海に届いている頃かなと思っています。
今回、関口美術館で柳原義達先生の一周忌を偲んでの展覧会を祝し、先生のご冥福を心よりお
祈りします。
中島 修
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